これは2016年あたりの正月に撮った家族写真だ。

この頃、父はすでに認知症が進んでいたが、それでも完全なボケという感じではなく、2018年に亡くなる直前まで、人になにかを伝えることへの思いを訴えていた。

母は母で、両足の不自由な状況ではあったものの、2019年に発見されなかった大動脈瘤の破裂で突然亡くなるまで、頭も気持ちも本当に元気だった。
今から思えば、二人の死に様、いや生き様はまさに「生ききった」という言葉にふさわしく、本当に幸せだったといえる。

後列左は長兄の伸樹(のぶき)、真ん中は次兄の基樹(もとき)、右前列は妻の円(まどか)。
不思議なもので、両親がこの世を去ってからのほうが、三兄弟の絆や信頼が強くなり、今が一番仲がいい。
兄二人の奥さんもこの写真には写っていないが、3人とも夫婦仲が良い。

このほかにも両親は生前、姉妹家族をしょっちゅう家に呼び、親戚一同で仲良く食事などをしていたため、いとこ達もふくめた大家族という感覚を私たちは共有していて、それがどれだけ幸せなことかと感じると同時に、脈々と連なる命のつながりを感じさせるのだ。

こんなふうに毎年8月というのはいのちについて特別な思いを起こさせる。お盆、お祭り、花火大会、海水浴、夏休みに加え、390万とも言われる日本人戦没者を出した敗戦、原爆も全部8月だ。

1年で最も暑いこの月、偶然か必然か、歴史的な事象も重なり、日本の人々は命について向き合い、考えるようになったのだろう。

そんななか、今年も8月6日と9日が来た。
78年前の広島と長崎に原爆が投下され、数十万の人が亡くなった日だが、そのことが私の自分史に大きな影響を与えたエピソードを、流れてしまうSNSではなく、今年はあえてこのブログで綴ってみることにした。

歴史の好きな祖母が提案した「史樹」という名

私の名前は史樹(ふみき)。1968年7月7日生まれの私が生まれる前、家族で名前の検討会議が行われ、歴史好きな祖母が「史樹はどうかしら」と提案したという。

ご覧のとおり二人の兄に共通する「樹」ということもあり、それはそれですんなり決まるかに見えたが、それを聞いた両親の胸には、一種複雑な思いがよぎったという。

というのも、1960年広島に生まれながら、2歳の時に急性白血病を発症し、1968年2月、私が生まれる半年前に7歳で亡くなった被曝二世「名越(なごや)史樹」ちゃんと同じ名前だったからだ。

出典:呉市の吉浦町(現:若葉町)の海軍工廠砲煩実験部から尾木正己が撮影したきのこ雲。ニューラルネットワークによる自動色付け+手動補正。

母の操(みさお)さんは、1945年8月16日、女学校四年生の16才のときに爆心地から2.3キロの地点で被曝。その後原爆症により体調不良が続くが、1954年に名越謙蔵(けんぞう)さんと結婚。史樹ちゃんは二人の間にできた次男である。
 
史樹ちゃんの死は、被曝後の体調不良と向き合いながらも必死に、幸せに生きてきた家族を戦後20年後に襲った悲劇だった。

名越史樹ちゃん。1960年生・1968年死去。

しかし敗戦の日、それまで日本国民を騙し続けていた大人たちへの強烈なアンチテーゼを原動力に平和活動を行っていた両親は、その史樹ちゃんの生への思いを引き継いでほしい、戦争の惨さを未来に語り継いでほしいという願いをこめて、話し合いの末に私にその名を命名した。

今も忘れ得ぬ一言

史樹ちゃんの話は、当時マスコミでも話題になり、彼の短い一生を綴った「ぼく生きたかった 被曝二世史樹ちゃんの死」という書籍も出版された。

この本を私は物心ついたころから手にし、両親の行っている活動なども身近で見てきた。
そして12歳になったとき、両親は私の名前の由来を私に話し、母と私は当時存命していた操さんに会いに行った。

母は、日本が敗戦を迎え、それまで勝つと言っていた大人たちに強烈な不信と怒りを覚えた12歳の時、私と操さんを会わせると決めていたと生前教えてくれた。

夜、広島市内の名越家で操さんに出会い、緊張した思いで初対面の挨拶をした時、優しそうな操さんが言った一言が忘れられない。

「大きくなって…」

この一言は、私の自分史を激変させ、そして今を支えているといっても過言ではない原体験となった。

「貧乏くじ」から逃げ続けたクズ

その後私たちは史樹ちゃんの仏壇にお線香をあげ、操さんとたくさんの話をした。仏壇には絵が好きだった史樹ちゃんが描いた、たくさんの絵が飾ってあった。

操さんは終戦直後からずーっと放射線障害で大病をし、私が訪れたときも辛そうな状態だったが、決して泣き寝入りはせず、被爆者として、自身の被爆者差別の体験や史樹ちゃんの話を発信し、活動し続けていた。

私はそのあまりにも苦しく悲しい彼等の人生に打ちのめされ、そしてその不条理さに憤りを感じながらも、それをどう言葉にしてよいのか分からないまま、その日は終わった。

しかしその出会いのあと、私はその現実から「逃げ」の人生を選択した。

この不条理に対する怒りを誰にぶつけたらいいのか分からず、少しでも話そうものなら「柳澤くん、政治の話とかするんだ…」という静かな、奇妙なものを見るような目線に私は耐えられなかったのだ。

すでに時代はバブルになりかけており、戦争などは遠い昔のこと。政治の問題などに触れるだけで「空気を読lまないやつ」という空気にさらされる。

「そんな『貧乏くじ』は引きたくない」

私は腹の底に、それに対する怒りのマグマをずっと留めたまま、しかし操さんに会った時の感情に蓋をし、逃げを選択する中途半端な人生を歩き出した。

反逆・反体制を謳うパンクロックに傾倒しながら、そこに深く突っ込むこともなく、中途半端に大学を出て、中途半端に会社勤めをし、中途半端に上司に反抗し、中途半端に転職を繰り返し、そんな不完全燃焼感を麻痺させるように、稼いだ金を中途半端にギャンブルやその場の快楽に注ぎ込んだ。

ありとあらゆる全てから中途半端に逃げていたクズ野郎、それが私だった。

今から思えば、長い長い時間、その自己嫌悪すら、自分は取るに足らない人間だという中途半端な言い訳にして逃げていたのだと思う。
そんな人間が出世などするわけもない。そんな状態が30代の後半まで続き、その間に操さんも、お父様の謙蔵さんもこの世を去っていった。

「私の人生はこんなままで終わってしまうのかな」

どうしようもない絶望感と自己嫌悪、しかしそれに終止符を打つ勇気すらない、雁字搦めの状態だった。

それでもそんなどうしようもないクズの私に仕事を教えてくれたweb制作会社の社長夫妻、妻、そして家族や友人がいたからこそ、自殺などしないで生きていられたのだろう。

そして2011年、私の自分史にとって、最大とも言えるターニングポイントとなる福島原発事故が起きた。

冥土で挨拶するために

福島原発事故では、ご存知のとおり「原子力の平和利用」という名のもとに日本の国策として戦後64基建てられた原発のひとつである、福島原発第一発電所が、地震と津波で電源喪失、原子炉が破壊され、莫大な量の放射性物質が撒き散らされた。

当時は放射線障害を避けるために多くの人がパニックのように関東を離れていき、福島県の人々も戦争難民のように着の身着のままで全国各地に散っていった。

しかもこの事故はその後、小泉純一郎や安倍晋三ら自民党政府が十分な安全対策を東電に指示しなかったがための人災であることも判明した。

そんななか私は、原発関連の映画上映イベントを開催したり、脱原発のグッズを作ったり、事故で神奈川に避難し、国と東電に対して訴訟を起こした人たちの手伝いをしたり、放射能測定事業のクラウドファンディングをしたり、とにかくできることを片っ端から始めた。

あの原発事故が、操さんと史樹ちゃんの人生を無残に奪った核兵器から派生したものであること。
それをアメリカの言いなりになって、ロクな安全対策も取らずに国策として原発を進めてきた日本政府の問題だということ。

12歳のときから学び感じてきた政治や社会の実態と、胸のなかでずっとくすぶっていた思いが、マグマのように噴き出した。

「今やらねばならない、発信しなきゃならない。ここで動かなかったら、冥土に行って名越さん家族に挨拶すらできない」

という異常な使命感のようなものに私は突き動かされていた。

今なお続く核被害

それから12年の間、日本政府は事故の影響をなかったものとして税金をばら撒いて福島の復興を推進した。しかし福島をはじめ広域にわたる土壌汚染は手つかずのままであり、復興のための支援施設の周辺は未だに数万ベクレルという数値を記録している。

また神奈川県で強制避難・自主避難を余儀なくされた福島の人々の訴訟は今も続いており、国の責任は問われないまま、10月6日に東京高裁で結審が行われ、来年には判決が下る予定だ。原告団のなかには、故郷福島に帰ることを願いながら、すでに鬼籍に入った方もいる。

福島原発かながわ訴訟を支援する会HP:
https://sites.google.com/site/fukukanaweb/home

さらに当時子どもだった人たち7人が、事故後に甲状腺がんにかかったことを理由にした訴訟も始まったばかりだ。7人のうち最年少は高校生。
うち4人はがんが再発し、進学や就職でも数々の困難を抱え、大学を中退せざるを得なかった原告もいる。

311甲状腺がん子ども支援ネットワークHP:
https://www.311support.net/

このように原告団の多くの自分史はあの日から激変し、尊厳は蹂躙され続けられたまま生活を送っている。

そんななか、日本政府はずさんな管理でたびたび問題になっているにも関わらず、これまで40年を限度としてきた原発の稼働年数を60年に延長することを決定し、原発の再稼働を開始、放射能汚染水の海洋放出を9月に行う予定だ。
 
このようにあまりにも酷い状況のなか、私ができることなど限りがある。
多すぎる問題を前に、未だ中途半端な自分に忸怩たる思いがあるが、発信という部分で自分でできることをできるだけ行っていくつもりだ。

また福島原発事故について、理屈ではなく、感情に直接訴えるためにアートやクリエイティブの力を借りたいと、多くのアーティストを集めてのNippon AWAKESというプロジェクトに携わり、昨年は東京で展覧会「AWAKES みんなの目覚め展」を開催し、来年にむけて新たな計画を企画中でもある。

Nippon AWAKES HP: https://nipponawakes.com/

そしてこれから。

ここまで私の自分史と、そこにまつわるエピソードを記してきた。
最後に、私はわたしの自分史をこれからどう生きていくのかを記しておこうと思う。

私は、逃げながら迷走していた時期、半ば救いを求めるように、知っている人たちにどうやって生きるエネルギーを得てきたのかを、その人の軌跡である自分史を聴くことを学びと励みにしてきた。

その体験を通じて、自分史に他人を励ます力があるということをライフワークにしたいと、2016年に一般社団法人 自分史活用推進協議会の資格をとり、友人らと個人向けと企業向けにその価値を伝えることをはじめた。

おかげさまでこれらの講座は、着実に業績を伸ばしつつある。
VUCAの時代などと称されるように、社会不安が増大してきた近年、自分らしい在り方を求める流れが隆盛してきているのだろう。

自分史講座&マインドフルカフェHP: https://mfc.twodoors.link/

限りある一生をどう生きるか。
いまこうして生きていられることの奇跡と、その価値を味わいながら主体的に生きる意味を、私は残りの人生をかけて少しでも伝えたいと思う。

どんな自分史であっても、誠実に自分の生を全うしたいと思う人であれば、その価値はかけがえのないものであり、人と比べるものではない。

前述のとおり迷走していた時期が長く、人に迷惑ばかりかけていた中途半端な私は、12年前の事故をきっかけに、自身の自分史をどう生きるかを決めて動き出した。

そして原発事故や壊れつつある政治や人の意識という、厳しい現実に直面し続けながらも、それまでには絶対に出会えなかった、本当に多くの信頼できる仲間たちができてきた。

そんな私の経験を活かし、一人でも多くの人に自らの自分史を生きることの価値を感じ、生きる希望やエネルギーを得てもらうこと。

それが史樹ちゃんや操さん、謙蔵さんはじめとする、望まないのに戦争で亡くなった多くの人たち、そしてそんな私を産んでくれた今は亡き両親、そして今、共に自分史を生きてくれている妻や兄弟、親戚や友人など含め、世の中に少しでも私が貢献した証になると思っている。

思わず長く書いてしまったが、ここまで読んでくださったみなさん、本当にありがとうございました。
今生でお会いできたのもなにかのご縁。
これからそれぞれの自分史を彩りあるものにするために、共に歩いていきましょう。

投稿者プロフィール

柳澤史樹
株式会社 Two Doors 代表社員。
一般社団法人 自分史活用推進協議会認定 自分史活用アドバイザー。
企業研修プログラム「マインドフルカフェ」メンバー。
ライター・編集・プランナーとしても活動中。