今日は3月11日。私の自分史が変わったあの日から13年が経ちました。
あの日、普段は行かない東京駅で打ち合わせのあと、大丸百貨店で文房具を見て、横浜の自宅に帰ろうとエスカレーターで1階に降りた時でした。

上から吊り下げられた大きなアクリル板が揺れ、混んでいた店内は女性たちの悲鳴で騒然となりました。その後駅前広場に出て、相次ぐ余震にゆらゆらと揺れる高層ビルを茫然と見上げたことを思い出します。

なんとか連絡がついた妻と、品川駅で落ち合う約束をして歩き出しましたが、品川駅につくと、見たこともないような人の群れ。
妻に連絡すると同僚が疲れて歩けなくなったことで帰宅を断念、中目黒で偶然見つけられたネットカフェに避難したとのこと。
私は「これは生存のための試練だ、歩くしかない」と半ば興奮気味に帰宅難民者の人たちと横浜への道を歩き出しました。

それでも東京はまだ機能しており、コンビニも飲食店もやっていました。私は、東北でなにが起きているかも知らず、不謹慎にも江戸の飛脚になったような高揚した気分で東海道を下っていったのです。
 
しかしよる9時すぎに入った中華料理屋のテレビで、町を飲み込みながら内陸に進む濁流を見たとき、私はなにをハイになっていたのかと茫然としました。すでにその瞬間、数千人の人たちが犠牲になっていたのですから。
加えて途中のパチンコ屋で、煌々とした電気のなかにたくさんのお客さんがいるのが見えたときは「自分も含め、人間ってのはなんて身勝手なんだ…」とさらに重い気分になりました。

残り数キロの地点で足の痛みが止まらなくなり、びっこを引きながら自宅に到着したときはすでに深夜2時くらいだったと思います。

そして福島第一原発の爆発事故が起き、福島をはじめとする美しい山河が膨大な量の放射性物質で汚染されました。
あの日を境に、被爆二世として生まれ、7歳のときに急性白血病で世を去った広島の子どもと同じ名前を親から付けられた私は、自らの自分史を書き換えることを決めたのです。

「なぜ日本にこんな核被害が起きたのか、日本人全員が考えるだけでなく行動に移さなければならないし、核というものについて私がそれまで知っていたことを一人でも多くの人と共有しなければ」と動き、あっという間に13年が経ちました。

しかし当初は大きなうねりだった原発反対の世論は、いつのまにか「サヨクの人がいうこと」のような扱いになり、多くの人々が沈黙してしまいました。
また同じように原発について連携して動いていた人たちとのご縁も、いろいろな理由でできては消え、できては消えていきました。
その間に両親や友人はこの世を去り、私と妻は「引っ越すはずがない」と信じていた横浜を離れ、相模原で住むようになりました。

そんななか、私なりに考え、これからのライフワークとして定めたのが「自分史」だったのです。

あの日をはじめ、元旦に起きた能登地震、コロナワクチン、台風など、この13年のあいだ、多くの人がこの世を去っているにも関わらず、なぜ私はいまも「生かされている」のでしょうか。
私が、あの日からどういう自分史を生きることが、生かされたことへの貢献になるのでしょうか。

各々が「その人の自分史を生ききる」ことが、その人の使命、いわばお役目を全うすることになるし、亡くなった方へのせめてもの鎮魂にもなる。だからそれを多くの人に伝え、共有し、支え合って生きていきたい。
 
私の人生が大きく変わったあの日から13年目の夜、改めてそんなことを考えています。

投稿者プロフィール

柳澤史樹
株式会社 Two Doors 代表社員。
一般社団法人 自分史活用推進協議会認定 自分史活用アドバイザー。
企業研修プログラム「マインドフルカフェ」メンバー。
ライター・編集・プランナーとしても活動中。