成熟への分岐点

「ホリエモン餃子事件」

先日「ホリエモン」こと堀江貴文氏が広島の飲食店で、連れがマスクをしていなかったことで入店拒否されたことを自身のSNSで発信、店に嫌がらせが殺到して休業になったという事件が起きた。

私は正直なところ、堀江氏はどうにも好きになれない。
彼を支持、いや崇拝する膨大な数の人もいるのは知っているし、知名度と影響力をビジネスにする才能は本当に凄いと思うが、あの人を喰って見下したような言動が私は生理的にダメだし、物事の本質的な部分をあえてずらしながら話題にするところに、緻密な計算高さを感じる。
政治だけでも日々ウンザリさせられる人たちがいるのに、これ以上の余計なストレスには触れたくもないから、ほとんど無視しているという感じ。
 
だから今回の事件を初めて聞いたときは「また堀江かよ。ピキッ」と来たが、その後事件についての記事を読み、もう少し冷静になって考えてみる必要があると感じ、Facebookで意見を募ってみた。

なぜこの事件について私の主観から彼への批判をせずいろんな人から意見を聞いてみたいと思ったかというと、「問題の発端がコロナのマスクであること」「この事件の問題の本質はどこなのか」に興味を感じたからだ。

ストレスといえば、コロナウィルス&マスクこそ、いまの社会で最大のストレスだろう。
誰もハッキリしたことは分からないのに、余計な軋轢や分断を生むからこれにも触れてこなかったが、もういよいよ逃げてるわけにはいかないな、と今回堀江氏が気が付かせてくれたのだろうと思うことにした。

想像していたとおり、コメント欄には多くの人達が正直に自らの考えを語ってくれ、この事件の問題の難しさがはっきりしてきた。
それと同時に、大きな自戒への気付きになった。
これをオープンに語ってくれる友人関係こそ、私の財産だと思っているから、質問した責任とみなさんへの感謝を前提に、自らの思うところをまとめてみた。

「ジャッジメント≠断罪」

ジャッジメントとは「判断」という意味の英語だが、このジャッジメントが自らの主観により「断罪」に使われる傾向が顕著だ。
現代社会における他者とのコミュニケーションにおいて、これが最も大きな問題のひとつかなと思う。
 
異なる意見について、主観的な判断が強すぎ「それはダメだ」と断罪風になりすぎると、物事は平行線のまま。議論はこじれ、全く解決には向かわない。政治をはじめ、とかくいま社会ではこの問題のオンパレードだ。
 
それぞれの理由をとことん論じ合うことは大事だが、信頼関係ができていない上にそこに無下に入り込むと、ただの否定合戦になりがち。
さらにそこにはそれぞれの「正義」が入り込むから、余計にやっかいになり、最後は遺恨だけが残るという結果になる。
 
かといってただ予定調和だけでうまく納めろ、とは全く思ってない。それがこれまでの日本をダメにした原因だとも思うほどだから、譲れないものならとことんまで話し合っていくべきことがある。
大事なのはそれが「正義の押しつけによる断罪」になってないか、という視点を自らが常に持っていられるかどうかということ。
その視点を忘れさえしなければ、物言いの一つも変わるはず。

私は心がけていようとするけど、それも気を遣うから疲れるし、人によっては「本気で言ってるの?あなたできてないじゃない?」という人がいるこを否定できない。
しかし私はそこで凹んでしまわないように自分を鍛えればいいだけの話だと思っているし、それを指摘するだけで発展しない関係の人は、それだけの縁でしかないから、おのずから続かないのだ。

本質的な問題へのフォーカス力

これもずっと思ってきたけども、これからさらに求められる力だと思う。
今回のトラブルにおいて、自分の考えを決めるファクターが在りすぎるのが、混乱している原因だ。
堀江氏の傲慢な人格か? 店主のマスク原理主義か?
恐らくそれぞれ問題はありそうだが、私は個人的に、どんな理由であれ、トラブル後自らの影響力を知りながらSNSで拡散した堀江氏は「やっぱりこういうヤツは嫌いだ」という結論になった。
  
しかし、そんなことよりも、私が最も本質的な問題だと感じるのは、その発信を見て店に嫌がらせをおこなった彼の「狂信的信者」たちの言動だ。
 
利害関係もないのに、他者のトラブルに首を突っ込み、立場として圧倒的に弱いその店に対して直接的なハラスメントをするその感覚。
それはまさに関東大震災でデマに流され朝鮮人を虐殺した群衆や、ナチスとか大本営を狂信し、地獄の戦争を肯定してきた市民、自らの信仰のために虐殺を繰り返したKKKやオウム真理教の信者と同じだって分かってるのだろうか。

1933年,ベルリンのユダヤ人商店のボイコットを撮影するナチス宣伝班(wikipedia
アメリカの白人至上主義団体「KKK(クー・クラックス・クラン)wikipedia


これが今回私がこのトラブルを取り上げたいと思った本質的な理由だ。
なぜこうした集団リンチのような狂信的な風潮が現在の社会に蔓延しているのか、その原因こそ議論したいところであって、決して各々の「正しさの証明と他者への断罪ジャッジメント」大会ではない。
 
これには「自分の正しさを証明することで自己承認されたい」という個人の深層心理も関わってくるのだが、これだけ狂信的な風潮が無視できない規模になった以上、社会学として議論されるべき問題だと感じている。
 
これからの時代、個人的には恣意的であれ自然発生的であれ、こうしたトラブルが起き、人々が不安と恐怖で争い合う流れが加速すると確信している。
同時に、今回のように暴力的な手段に訴える人たちも増えるだろう。

だからこそ、今回の事件を通じて私は
一部だけ切り取って判断せず
他者を断罪する快感に惑わされず
本質的な問題を見極めながらも
自戒を忘れることなく
理解を促進するための議論ができる

コミュニケーションリテラシー
をしなやかに鍛えていかねばならないのだと思うに至った。

気がつけば長くなってしまった。
私たちが過去に多大な犠牲を払って獲得した「デモクラシー」について、一人でも多くの人が居心地のいい社会を実現するためにあるものだと私は思っているが、だからこそ、そもそもデモクラシーって面倒くさいもので、面倒くさいんだけどこれ以外のやり方を成熟させていく以外に、そうした社会を実現するのは難しいと思っている。
この成熟への分岐点ともいえる今こそ、私たちは学び、面倒くさい議論をしなやかに、諦めずに重ねていかねばならないのだ。

ということで。
堀江さんのことは相変わらず好きではないし、信者をたしなめるのが本来彼の仕事だったと思うことには変わりはないが、今回私にここまで書く気づきを与えてくれたことには感謝しているという結論になった。
また落ち着いて考えを整理していくことは、こういうことも可能になるんだなと書いてみて気がついた。
 
また今回、Facebookでコメントしてくれただけでなく、こうしたまとまりのない駄文にお付き合いいただいたたくさんのみなさん、ありがとうございました。引き続きよろしくおねがいします。


投稿者プロフィール

柳澤史樹
株式会社 Two Doors 代表社員。
一般社団法人 自分史活用推進協議会認定 自分史活用アドバイザー。
企業研修プログラム「マインドフルカフェ」メンバー。
ライター・編集・プランナーとしても活動中。

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2 Comments

  1. 鈴木 央子(のりこ)

    堀江氏は頭がよいがそだちが悪い‼️と思い込んでいた私、勿論嫌いです。では自分は今まで他人に不愉快な想いをさせてこなかったんだろうか⁉️自戒が心に染み込んだ柳澤さんの意見は自分とは?考えてみます。

    • 柳澤史樹

      鈴木央子さん 読んでいただきありがとうございます。いやー本当にどこまで自分ができてるのか、その視点と、批判的な視点のバランスを取るのって大変だと思う毎日です。でも萎縮はしたくないですよね。