3年前に相模原に引っ越してきた我が家は、近所の人が使っていた家の前の畑をありがたいことに借りることができ、野菜を育てはじめた。

1年目、予想以上に作物は育った。
「野菜づくりってわりと簡単なんだ」と喜んだが、甘かった。
2年目の発芽率は悪く、野菜の大きさや収量も激減した。
これは無肥料無農薬で野菜の栽培にチャレンジした人が必ず通る「試練」だと、友人の農家に聞いてはいたのだが、見事にその試練に直面したのだ。

土壌から人為的に施された肥料が抜け、微生物豊かな本来の姿になるまでは、約3年がかかるというのが、土づくりの基本だ。
1年目はそれまでの肥料が残っていた影響で育っていただけなのだ。

そして3年目。土の感触や野菜の出来を見ていると、少しずつだが確実に土壌は変わってきた。
この経験を通じて思うことがある。

今年植えたスナップエンドウ。頑張ってくれるかな?

 
「最近の若い世代は権利ばかり主張する。」

そう言う人が私の世代以降に多い。
私は日々それほど若い人と接することがないし、そもそも若い世代という主語も大きすぎる気がするが、それはそれで事実だろうとも思う。

しかし日本の歴史を振り返ってみると、国やムラのような公的なものの「圧」ばかりで、近代になって生まれた個としての欲求からなる権利が主張し、実現されたことはほとんどないことに気づく。 

当然のことながら、その権利を主張して従来の仕組みを変えるためには、これまでの仕組みや概念へ「否定や批判、反対」という形で可視化される。
そしてそれが時の権力者や「場を乱すもの」という社会のレッテル貼りで制圧、沈黙させられてきた歴史がほとんどだ。

私が日々の生活で感じる「主張の是非ではなく、そもそも反対するのが嫌い」という多くの人の意見は、これまでの歴史のなかで、主張を虐げられてきた日本人の心のDNAに深く入り込んだ「逆らうなんて損で愚かなこと」という「常識」なのだろう。


ただいつの時代、どの国においても、新しい常識は旧い常識を否定し、批判するところから生まれる。

それが本当に未来のためになるものであれば、旧い常識を変えられない人々からの反発や圧を受けながらも、少しずつ少しずつ浸透していき、そしていつの間にか常識というものは入れ替わっていくのだろう。

前述したような若者の存在は、そうした変容の萌芽なのではないだろうか。

こう書きながら、若い世代の「これまでなにもしてこなかったのに偉そうに言うな」という無言のプレッシャー(そんなことを実際に言われたわけでもないのだけども)を、勝手に自覚している。

もちろん、新しいものをすべて肯定するというわけではない。
古き良きものは山ほどあるし、それを活かしていくことも本当に重要だと思うからだ。


そう考えれば私は、どちらの世代から見ても面倒くさい存在だろう。
しかし相対的に見て、新しい常識がうまれやすい土づくりには、それなりに役立てるという自負もある。

私は自らの生活を通じて検証と実践を繰り返しながら、新しい常識が生まれる土づくりの一助になりたい。

3年目の畑で一生懸命育つ野菜たちを見ながら、そんなことを思っている。

立派に育ってくれた大根。

投稿者プロフィール

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柳澤史樹
株式会社 Two Doors 代表社員。
一般社団法人 自分史活用推進協議会認定 自分史活用アドバイザー。
企業研修プログラム「マインドフルカフェ」メンバー。
ライター・編集・プランナーとしても活動中。